法華寺縁起

開山上人

久保田日亀 正中山法華経寺(日蓮宗大本山・千葉県)第114世

寺号公称

明治30年3月25日

開創年代

明治19年10月5日

開基上人

松井日祥

歴代上人

  • 第1世 久保田日亀
  • 第2世 松井日祥
  • 第3世 小山智信
  • 第4世 獅子原昌音
  • 第5世 獅子原善量
  • 第6世 鈴木顕成
  • 第7世 波岡啓順
  • 第8世 波岡智穏
  • 第9世 波岡玄智

開基檀越

  • 小成新助
  • 阿部金右衛門
  • 吉野浅吉

沿革

当地に法華信仰の種子が布かれた時期については明確ではない。しかし近年開基檀越の一人阿部金右衛門方より板曼荼羅が見つかり、明治9年の年次が記されている。これにより明治9年にさかのぼる時期に開教の基があったことがうかがえる。道東管内では最古の由縁をもつものであり北海道においても屈指の古刹といえる。このような開創期をへて明治13年の現存記録から以下のように知りえる。以上の開創期の基盤の上に、信徒一同一寺建立を発願し、明治15年根室説教所担当に松井日祥上人(根室常惺寺第2世、伊豆国君澤郡三島駅伝馬町妙円寺徒弟来るを縁として法瑞山祥光寺の名で出願公許の手続きをする(明治16年1月1日付)正中山法華経寺第114世久保田日亀上人(真間弘法寺66世・池上本門寺68世)の副願の助力もあったが、根室県令湯地定基は翌17年10月14日付で「書面之趣難聞届候事」と一寺建立は認められなかった。信徒30名が連署出願したものであったが維持力・永続力が不足していると見解したためだった。こえて明治19年1月には78名に連署を増やし法華経寺塔中住職森田寿善上人を受持としての法華堂建立を出願。明治19年10月5日根室支庁長は「書面趣聞届候事」と許可。法華寺は法華堂に端を発した。明治19年10月5日に根室支庁より認可を受け、法華寺の前身として誕生したのが法華堂です。松井日祥上人は根室より隔月来村教化に当たり諸堂建築成就のため女人講・護法結社を組織。信徒の丹精実を挙げ勧募金1363円余。再出願の公許を得て翌年明治20年法華堂着工、翌21年7月31日落成と相成る。境内の広さは625坪・堂宇50坪であった。日祥上人、堂宇を守って明治22年8月20日に退き、同25年10月1日小山智信上人(智信院日儀)正中山法華経寺より派遣される。日儀上人、伝道に勉励し信徒の育成大いにつとめ112戸の外護の徒を育成。寺基確立し明治28年8月寺号公称を出願。同30年3月25日付(北海道庁令第1031号)許可。3世日儀上人が実質的な開基・開山といえよう。3世智信院日儀上人は群馬県甘楽郡富岡本城寺本田穏静上人の徒弟。明治38年まで在職。同年から大正4年まで獅子原昌音上人第4世。大正4年から同12年まで獅子原善量上人第5世。大正13年から同15年まで鈴木顕成上人第6世と次第継承。第7世波岡啓順上人昭和6年から10年まで在山。その後波岡智穏上人が第8世となり昭和15年境内を整備し同27年霧多布説教所を閉鎖して本堂・庫裡百坪改修。同45年改修。46年位牌堂新築。50年庫裡新築。55年庫裡増築と工を重ね寺観を一新する。現在は9世波岡玄智上人が法灯を継承しており、近年主に本堂大改修ならびに境域内の造園等を大幅に手掛け達成し今日に至る。浜中法華寺奉安祖像(日蓮聖人の像)は読経像で正中山法華経寺第3世日祐上人感得と伝えられていて、同山52世日治上人が元禄9年祐師堂に移し、転じて法華堂へ寄納すと寺院台帳に記載されている。浜中法華寺堂内の鬼子母尊神像も同様である。また寺宝として正中山法華経寺114世久保田日亀上人の首題本尊が存る。

PAGE TOP