博愛と余慶

博愛と余慶~追伸として

博愛の反対はエゴであり自分本意ということ。

ひろく愛する。

心身ともに充実してる時ならば、博愛に叶う気持ちになれましょうが、気持ちには浮き沈みがありますから、病気などの原因で心が弱ると自分のことばかり考えて、無遠慮な振る舞いをすることが平気になってしまいます。

だからきっと、ときに叶った行動が大切。
それが無理の無い、いわゆる偽善的ではない善行なのではないでしょか。

自分中心であれこれ考えていないときだって誰にでもあります。自分のみならず、その周囲のことも併せて考えられる、そのような時がときに叶う行動をするときです。

ときに叶う行動をすることは、仏さまのもつ大きな10の力のひとつ知処非処智力に通じるものであり、私たちは一時的にでも仏さまと全く違うものではないものになれるのです。

簡単に言いますと知処非処智力とは、リンゴは赤くなってから木から採る食べものだと知る力のこと。青くて食べられないりんご10個採るより、紅くて美味しいりんごをひとつとることがより理に叶っていることを知る力のことです。

我々が知処非処智力に応じられるような時は、身体も無理がきいてよく働らくものですから、ちゃんと頑張って仕事をした後、先祖供養の為正座してお題目を唱えて、ちゃんと先祖供養の為お題目唱えた後、無縁の霊魂にお題目を唱えて供養をする。そういう善行をコツコツ積んでみましょう。

そういうことが普通の人ができる実際的な博愛の行いの姿であります。そういう無理のない善行の姿を『 余慶(よけい) 』と言います。

博愛と余慶~追伸として

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